2008年12月25日木曜日

Guinee:ギニアのたどった歴史


今回、まるで時代を何十年か遡ったような、大統領死後の混乱状態になっていますが、これはギニアがたどった歴史を見ればなんとなく理解できるものなのです。1950年代後半、ヨーロッパは植民地支配をあきらめ、旧植民地を徐々に独立させ、これらの国がその国のリーダーによって導かれるようにしていきました。この時代は多分アフリカがもっとも希望に輝いていた時代なのではなかったかと思います。フランスは旧植民地とのつながりを保ったままの独立を目指す政策をとります。しかし、ギニアだけはこの政策をはねつけ、旧宗主国と完全に袂を分かった道を選んだのです。そして他のアフリカ諸国に先立つこと2年、1958年にセク・トゥーレのもと、ギニアは独立します。フランスはこのギニアの姿勢に不満で、ギニアのフランス人はギニアを去るにあたって机まで持ち去ったと言われています。
このあたり、ルワンダについて書いた「憎悪と独立心」に通じるものがあるわけで、私がこれからのルワンダを心配するのはその点なのです。さて、ギニアは完全に孤立した状態になるわけですが、このような若い、できたばかりのアフリカの小国が国際社会でやっていけるはずもなく、セク・トゥーレは援助を求めてソビエトに歩み寄ります。このプロセスの中で多分、セク・トゥーレの夢と正常さが崩壊していったのかもしれません。独立の際にセク・トゥーレは「隷属のもとの豊かさよりも、自由のもとでの貧困を選ぶ」と言ったそうですが、この貧困は本当に高くついたのです。社会主義も彼の夢を実現させるにはほど遠く、人民の不満は高まり、彼の人気は落ち、政敵に悩まされ孤立化したトゥーレは秘密警察を使った逮捕・拷問による恐怖政治に走ります。そして失意の中、1984年に病死。その後、無血クーデターによって軍人のランサナ・コンテ大佐が政権を握ります。このプロセスは、今回のクーデターの一種のお手本になっている気がします。農民の息子であり、職業軍人であったランサナ・コンテの足跡は明らかに次の世代に引き継がれようとしています。また、今回の反乱分子がまずテレビ・ラジオ局を押さえ、占拠し声明を出すところなどはコートジボワールのロベール・ゲイの模倣にも見えます。ランサナ・コンテという人物はある意味、セク・トゥーレとは正反対のタイプであるように思えます。彼にはトゥーレを突き動かしていた夢や理想、病的ともいえる独立心はありませんでした。トゥーレがある意味イデオロギーの怪物であったといえるのに対し、コンテはそういうものを一切持っていなかった。彼はトゥーレという怪物の後釜に座っただけの凡人だったといえるでしょう。しかし、彼は平民出身の職業軍人らしく、造反するものをいち早く感知し、排除することで権力の座を死ぬまで守り抜くのです。トゥーレは恐れられたのと同じくらい人々の心に刻み付けられている。今でも自分の子供にセクという名前をつける親は結構います。それに比べてコンテの人気は驚くほど低いのです。ギニアの貧困を逃れてダカールにやってきたギニア人はコンテを憎んでいます。
ギニアには世界有数のボーキサイトの鉱山があります。また、山岳地帯では金も産出されます。そういう意味ではギニアが今の状態のようにほとんど存在しない公共インフラやら、国民のほとんどが貧困状態にあるなどという状態自体が異常だといえます。
例えるならセネガルが西アフリカにおける民主化、近代化のお手本であるのと同じくらいギニアは悪いガバナンスの見本なのです。
さらに、ギニアの歴史に影を落とすのが隣国における争乱です。90年代に相次いでリベリア、シエラレオネが内戦に突入し、戦火を逃れた難民がギニアに流入しました。また、この内戦の最中にこの地に入り込んだ武器商人や傭兵が跋扈することになるのです。
今回の争乱がうまく収まり、よい指導者が政権をとればギニアはようやく正常な発展のスタートに立てるのかもしれません。今までギニアの人々が味わってきた辛苦を考えるとそうなってほしいと願わずにいられません。そして、セク・トゥーレの夢見ていたようなギニアになっていってほしいと思うのです。

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