2008年7月3日木曜日

教育とLaicite


ベルばらで思い出したのですが、フランス革命時の人権宣言のもう1つの産物として、公的教育におけるLaiciteの徹底というのがあります。Laiciteとは「市民生活と宗教との分離」を意味する言葉でわかりやすく言えば日本の「政教分離」のコンセプトに似ています。これはもちろんフランスの歴史において教育と宗教が深く関わっていたという歴史的なものがあって、新しい政治体としての共和国(Republique)とその国民教育を受け持つ公立学校での教育のあるべき姿として宗教的中立が絶対に必要であるというコンセプトに基づいているのです。よってフランスの教育制度はイギリスやアメリカ、日本のそれと全く違うと言えます。
数年前、フランスの公立校でのイスラム教徒の女子のフラール(顔をかくすかぶりもの)が禁止されたことが大きな社会問題になりました。他国の人にしてみれば「なんだ、そんなくだらないこと。好きにさせればいいじゃないか?」と思うのが普通なのですが、フランスではそういうわけにはいかないのです。それは、この「フラールをかぶる」行為が公的教育のLaiciteに抵触するからです。そしてフランスの公立校とは言ってみれば共和国人としてのよき市民となるための教育を受けるところなのです。だからフランスの公立校には十字架をかけることすら許されていない。そして、フランスの公立校では移民でも外国人でも入学を許されればフランス人と同じ教育が受けられるし、基本的に無料です。
これを見てもわかるように教育とは多分に歴史的かつ政治的なものなのです。
また、フラールの問題を考えてもわかるように、国としての論理構造にかかわる重要な問題でもあります。

さて、仏語圏アフリカでもその歴史的経緯からほとんどの国でこのフランス式の教育とLaiciteのコンセプトを引き継いでいます。
しかし、Laiciteに関しては近年セネガルなどでは変わり始めている気がします。
教育のウォロフ語化といい、例えばコートジボワールやベナンのように言語的多様性のある国では起きないような現象がおきている気がするのです。ギニア湾岸の多民族国家ではフランス語が唯一の共通コミュニケーション手段であるため、教育も基本的にフランス語で行われていますし、言語とともにその教育システムとかコンセプトもそのまま引き継いでいます。
私はセネガルにおける教育のウォロフ語化を嘆いているのではなく、ウォロフ語がピジン化しやすい言語であることを考えると教育システムもピジン化しようとしているように見えるところが怖いのです。
これは、教育と政治の深い関係を考えると政治のピジン化につながりかねない。政治のピジン化がまねく共和国のコンセプトのピジン化はすなわち憲法のマニピュラシオンにつながっていくのではないかと・・・もちろん、これは憶測にすぎませんが。
そして、憲法のマニピュレーションの最も典型的に現れるところ・・・それは大統領任期の制限の撤廃です。
最近カメルーンでこれが起きたようですし、ニジェールでも来年の選挙に向け、この作戦が進行しているとも聞きます。
しかし、これが示唆するものは将来の政治的不安と軍政の恐怖だと思うのですが・・・私の老婆心に過ぎないことを心から祈ります。

ちなみにドラクロワのこの絵はiPodのCFに使われてるCOLDPLAYのジャケットにもなってますね。

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