2008年7月4日金曜日

アフリカで暮らすということ


私が最初にアフリカの土を踏んだのは1988年の2月でした。あれからもう20年もたつなんてちょっと信じられませんが、砂嵐で白く霞んだダカール空港に降り立った時は「とんでもないところに来てしまった・・・」と思ったものです。そのときは青年海外協力隊員として、セネガルの東部にあるタンバクンダに派遣されたのですが、最初の数ヶ月のことは今も鮮烈に覚えています。タンバクンダはセネガルの中でも最も気候が厳しく、未開なところで、とにかく暑く、夕方など何を触っても熱いのです!空気はもちろん、家の壁も金属部分も、はては水道の蛇口をひねってもお湯が出る始末。今なら温水器がいらなくてなんて便利!と思う余裕がありますが、その頃は私も若かったし初めての海外だったしとにかく精神が拒絶しました。
そのうちに自分の心地よい環境は自分で作り出すものだということを悟り、その作業が楽しくなっていくのです。
これを身につけてしまえばどこに行っても自分が心地よく暮らす術を編み出すことができるものです。
だから、アフリカで暮らすことも、東京で暮らすことも、ニューヨークで暮らすことも大して変わらないのです。あとは懐具合との相談にすぎません。途上国であることの特殊性なんて存在しないと思います。
ライフラインがどうこうと文句を言ったとしても、それを途上国だから、アフリカだから・・・と結論づけるのは間違っていると思います。むしろ、一歩踏み込んで国際社会の中の石油の値段だとか、そういうグローバルな問題の発現と見るべきだと思うのです。
それに、パリなんかでもしょっちゅうメトロや国鉄がストをしていますし、不便という意味ではあまり変わらない。
食料問題にしても、グローバルな食料価格の高騰が原因であって、それをまたぞろ「アフリカの飢餓!」みたいに報道されたり、受け取られたりするのはとんでもない偏見だと思うのです。
もちろん、アフリカの一部には内戦をしているところもあり、心ない独裁者によって国民生活が脅かされているところもあり、それは大きな問題だと思います。でも、それは「アフリカだから」「途上国だから」じゃないと思います。
開発や発展のカギとなるのは、そういう偏見というか運命論(fatalisme)から抜け出すことだと思います。
人間というものは基本的に生きのびようとする指向性を持っています。たとえ、どんな環境に置かれたとしても、生き延び、よりよい生活を手にいれようとする、そういうパワーを信じて人々をその運命と対峙させるのも1つの「人道」という気もします。
アフリカはアフリカとして生きていくしかないし、それがアフリカのアイデンティティというものです。
ダカールの人たちはみんなそれぞれ問題を抱えながらも、それなりに楽しく生きていると私は思います。

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