2009年1月1日木曜日

Africa:軍事政権の光と影


先日、プロの政治家による文民統治がアフリカに根付きにくいのかと言いましたが、これは多分アフリカにおける民主主義の歴史が短いというのも理由としてあるのかもしれません。また、軍事政権につきものの軍隊的なヒエラルキーというものが絶対王政のそれに似て、民主主義の未熟な民衆にとって構造的に「わかりやすい」というのがあるのかなと思います。そう考えると、文民統治の国においても長期の独裁政権になったりしやすい、という現象の因果関係もはっきりします。
近代的な民主主義は言うまでもなく法治国家であることを大前提にしています。つまり、憲法というものは政治家という人間やその権力の常に上位にあって、その言ってみれば目に見えない「法」こそが「国家そのもの」となるわけです。それを考えると、憲法を一時的放棄してしまったギニアの新政権がアフリカ連合から除名処分されてしまうのは当然なのです。「国家そのもの」を放棄したのだから当然です。大統領や首相がいてもそれは単なる人々であって、国家はやはり「ない」のです。カマラ大統領は早速首相を任命したり、ダカールやバンジュル、ビサウやモンロビアに特使を派遣するなど外交に熱心で積極的なのは非常に評価できますが、憲法そのものを元に戻さないと国際社会、国連やEU、AUなどは認めてくれないということに早く気づいてほしいと願います。
さて、軍政ですが軍においては上官の命令は絶対です。ヒエラルキーは明確かつ絶対のものです。これが狂った軍隊は軍隊としての統制がとれなくなるからです。そして規律というものを非常に大事にします。つまり、社会の中に規律や統制がなくなっている場合にはこれを取り戻すために軍隊的構造というのは必要なのです。セネガルの軍というのは昔から有能なことで有名です。その評判に違わず、セネガル軍は規律も厳しく統制が取れておりしっかりしています。セネガルは独立以後、ずっと文民統治が続く非常に珍しい国ですが、この国の安全はこのように有能な軍の存在によって守られているのです。そして、軍は政府の完全なコントロール下にあり、政府が法治国家である以上、「法」が軍の行動を規定すると同時にその権利を保障しているのです。
近くのアフリカ諸国に行くと、軍人がセネガル軍人よりもだらしない格好をしているのがまず目につきます。例えばコートジボワールとか、テレビで見るコンゴ民軍などがそうです。これは軍の規律が緩んでいる証なのです。
日本が平和ボケしてるな、と思うのは人々の行動に隙がありすぎるとか、仲良しグループのような政党政治に対して民衆的な運動が起きないということよりも、政治家による憲法の軽視だとか、現職の自衛隊幹部が政府の公式見解と相反するような論文を発表してしまうところにあります。自衛隊は軍隊ではないといえば確かにその通りなのですが、規律を守らなければならないという意味では軍隊とかわらないはずです。もし、そうでないなら武器を持った暴徒とたいして変わらないのです。つまり、自衛隊にも絶対に守るべき規律とヒエラルキーがあります。そして、例の航空幕僚長はその内規に反した行動をしたということは明白なわけです。こういう、一種の紙の上でのクーデターが起きていながら、厳罰処分ではなく退職させるという極めて生温い対処しかしないあるいはできないところに一番「平和ボケ」を感じてしまうわけです。擁護派は言論の自由や個人の権利というものを主張しますが、武器を持つことができ、武力の行使を許されている立場の人間はこういった民間人に認められている自由や権利というものの前に規律に従うことを求められ、上官そしてその上位にある政府そしてさらにその上の憲法に絶対に服従しなければなりません。例えば自衛官が個人の自由を行使して武器を振り回されることが許されるでしょうか?もし、個人の自由を行使したいのであれば、ただの一般人に自主的に戻ることがまず必要でしょう。
もし、軍事政権で同じことをやったらどういう目に遭うか考えてみればいいでしょう。

0 件のコメント: